木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

京、まち、歩く! レポート         by 木公だ章三

133

2024/05/06

地域シリーズ : 『嵯峨祭』と大覚寺

5月最後の春祭といわれる嵯峨祭。例年5月の第3日曜日に神幸祭、第4日曜日に環幸祭が行われます。4年ぶりとなる2023年は、還幸祭が28日に行われ、2基の御輿が嵯峨嵐山一帯を巡行しました。嵯峨祭は愛宕神社と野宮神社の祭礼(主催は嵯峨祭奉賛会)で、各町が繰り出す5基の剣鉾が先払いをして巡行します。これらの剣鉾は京都市登録無形民俗文化財となっており、剣鉾が5基そろう祭りは市内でここだけです。この祭りに同行し、嵯峨野や大覚寺、中之島を巡りましょう。

《ご案内》

小倉山の東麓は嵯峨野と呼ばれる。鎌倉初期、藤原定家はそこに時雨亭を設け、小倉百人一首を編纂した。その地は定かではないが、常寂光寺、二尊院、厭離庵などでその痕跡を見ることができる。これら寺院の東に愛宕・野宮両神社御旅所がある。嵯峨祭の出発地となるこの御旅所は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)仁王門の南90メートルのところだ。

528日午前10時、御輿巡行の先陣を切って、周囲を浄める剣鉾が仁王門に向かって出発した。嵯峨野一帯を4年ぶりに巡行する嵯峨祭の始まりだ。中院町の「麒麟鉾」、大門町の「龍鉾」、鳥居元町の「澤潟鉾」、小淵町・井頭町・西井頭町の「菊鉾」、天龍寺地区(龍門町・角倉町・毘沙門町の交代制)の「牡丹鉾」の5基が、剣鉾を左右に回転させる独特の差し方で沿道を浄めていく。これらの剣鉾差しは各鉾町で差し手を養成し、嵯峨祭でその技を披露する。御旅所では愛宕神社の御輿が舞殿の周りを威勢よく回り、続いて野宮神社の御輿が回る。

午前1020分、2基の御輿が大覚寺を目指して出発した。嵯峨釈迦堂前を西に行き、愛宕街道を北に上がって嵯峨鳥居本伝建地区に入る。八体地蔵で東に向きを変え、大覚寺へと進んでいく。道中、獅子舞が泣く子をくわえ、健やかな成長を祈る。御輿が到着した大覚寺では、勅使門前で儀式が行われた後、祭りの一行は境内で午前の疲れを癒した。

大覚寺は、正式名称が「旧嵯峨御所大本山大覚寺」。平安のはじめ、嵯峨天皇が大覚寺の前身・離宮嵯峨院を建立したことから、嵯峨御所とも呼ばれる。876(貞観18)年、嵯峨天皇の皇孫・恒寂(こうじゃく)入道親王を開山として開創し、嵯峨院が大覚寺となった。1308(徳治3)年には後宇多上皇の嵯峨御所となり、院政の舞台となったところでもある。

大覚寺の堂舎のほとんどは、1336(延元元・建武3)年の大火や応仁の乱などで焼失したが、1589(天正17)年に空性を門跡に迎え、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(162444)には寺観がほぼ整えられた。1925(大正14)年に心経殿を再建し、大正天皇即位式の饗宴殿を移築して心経前殿(御影堂)とした。

大覚寺には重要文化財建造物が2棟ある。一つは式台玄関東側の宸殿。江戸時代に後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物で、妻飾り・破風板・天井などに装飾がこらされ、正面には御所の名残りとして右近の橘、左近の梅を配している。もう一つは宸殿西奥の正寝殿。桃山時代建立の書院造りの建物で、大小12の部屋をもち、上段の間は後宇多法皇が院政を執った部屋である。

大正時代に再建された心経殿は宸殿の東奥にある。心経前殿(御影堂)と勅封心経殿からなり、大覚寺の歴史上重要な天皇の尊像や般若心経などが安置されており、勅使門の正面に建っている。勅封心経殿は木造の八角円堂を鉄筋コンクリートで模した建物で、設計は昭和初期を代表する住宅建築家・藤井厚二が行っており、住宅以外の珍しい作品として国登録文化財となっている。宸殿と心経前殿を結ぶ回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がる回廊を稲光にたとえ「村雨の廊下」とよばれている。

大覚寺の東に周長約1キロの大沢池がある。離宮嵯峨院の造営にあたり、唐の洞庭湖を模して造られた日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)であり、庭湖ともよばれる。池のほとりに茶室望雲亭・心経宝塔・石仏・名古曽の滝跡があり、国の名勝に指定されている。

午後1時、大覚寺を出発した神輿は嵐山を目指して巡行した。途中、JR嵯峨嵐山駅では北と南のロータリーに立ち寄り、嵐電嵐山駅前を通って渡月橋を渡る。

渡月橋は、昭和に造られた鉄骨鉄筋コンクリート製の橋だが、中央が弓なりに高く、旧橋の意匠を継承し高欄が木造となっていて、嵐山をバックに京都を代表する景観を創出している。午後3時、嵯峨祭の一行は嵐山・中之島に向かって渡月橋を渡っていった。緑の山々を背景に赤の御輿、紫の御輿が、大勢の観光客や市民に見守られながらゆっくりと進んでいった。橋を渡りきった御輿は、威勢よく中之島になだれ込み、待っていた5基の剣鉾の前で鎮座した。

午後340分、2基の御輿は帰路についた。渡月橋から嵯峨釈迦堂仁王門へと真っ直ぐに通じる長辻通を北に上がり、出発地の愛宕・野宮両神社御旅所へと帰って行ったのである。嵯峨祭は大勢の観光客や市民に暖かく見守られた祭りであった。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

132

2024/04/01

地域シリーズ  : 嵐山から『桂川上流』を行く

小倉山の亀山公園展望台から見る桂川は、山を切り裂くように流れる保津峡の景色ですが、ここからは嵐山中腹の千光寺もよく見えます。その下には川沿いに某ホテルが建ち、渡月橋近くからそこへ船で向かうなど、保津峡の風情を満喫しているように思えます。嵐山から桂川を上がっていくと保津峡の先は亀岡盆地ですが、更にその先は北に上がるのでしょうか、それとも東に行くのでしょうか。それでは、渡月橋から桂川の上流をじっくり巡ってみましょう。

《ご案内》

嵐山・渡月橋から西を見る桂川は、左に嵐山、正面に烏ヶ岳が迫り、右手には小高い小倉山が椀を伏せたように据わっている。山にはアカマツやヤマザクラ、イロハモミジ、ケヤキなど様々な樹木が育ち、四季折々に美しい景観を織りなしている。川の中ほどには帯状の白波が立ち、その向こうは川面が静かだ。保津峡を勢いよく下ってきた水が一ノ井堰で堰き止められ、平らな水面を保っている。ここでは保津川下り船や千光寺に向かう船、観光船などが行き交い、川中から嵐山を楽しむことができる。この井堰は灌漑用施設として、古くは5世紀末に設けられたといわれており、嵐山の水辺風景をつくる礎ともなっている。

桂川は古くから丹波と京都を結ぶ輸送路として重要な役割を果たしてきた。長岡京や平安京の造営時には丹波の良質な木材が筏を組んで運ばれたといい、13世紀に筏流しを専門とする筏師が現れ、室町時代末期には豊臣秀吉が筏師を保護して発展した。江戸時代になると1606(慶長11)年に角倉了以が私財を投じて保津川を開削し、木材のほか農作物などの物資が舟運で大量に運ばれるようになった。しかし舟運は、1899(明治32)年の京都鉄道(現JR山陰本線)開通やトラック輸送の出現により徐々に衰退し、現在は「保津川下り」として京都の貴重な観光資源となっている。

嵐山の中腹には、角倉了以が開削工事に関係した人々の菩提を弔うため造ったといわれる大悲閣(千光寺)が建っている。室内には木造の了以像が安置されており、観音堂からは保津峡を見下ろすことができる。

ところで、京都にとって欠かすことのできない桂川は、いったいどこから流れてくるのだろう。桂川は丹波高地の佐々里峠を源とし、左京区広河原から鞍馬街道沿いを南東に流れる。京都市と美山町との境にある佐々里峠には立派な石室があり、峠にたどり着いた旅人の疲れを癒してくれる。

つづら折りの峠道を京都方面に下っていくと、右手にスキー場が見えてくる。京都市内で唯一残る広河原スキー場だ。かつては大勢のスキー客で賑わったが、近年は雪不足で不定期開催となっている。このあたりで桂川は鞍馬街道と交わり、広河原から花脊へと流れていく。スキー場から約2キロ先の早稲谷川(わさだにがわ)との合流点は広河原の松上げ場となっていて、集落の祭りの場として整えられている。さらに京都方面に約6キロ行くと、山村都市交流の森近くの河川敷に花脊の松上げ場がある。谷あいを曲がりくねって流れる桂川の広い河原を利用し、周辺の道路や橋、田畑からよく見える場所に祭り場が設えられている。桂川上流では、川が集落の祈りの場所としても活用されているわけだ。

桂川は花脊大布施町で西に向きを変え、京北地域の集落をグルグル回って周山町に至る。そこで周山街道沿いを流れる弓削川と合流して宇津峡に入り、日吉ダムによってできた天若湖(あまわかこ)となる。日吉ダムは、洪水調節と利水等を目的に1998(平成10)年から運用開始された総貯水容量6,600万立方メートルのダム。これは天ヶ瀬ダムの2.5倍の貯水量に相当する。湖の名称は、水没した201世帯の地区名を採って「天若湖」と名付けられた。

日吉ダムを流下した桂川は、南に向きを変え亀岡盆地へ入っていく。この盆地はかつて大きな湖だったといわれており、川によって運ばれた上流の土砂がここに堆積し、まとまった盆地を形成した。

亀岡盆地は、最下流の保津峡部分が狭窄部を形成しているため、これまで幾度となく氾濫をくり返してきた。特に60(昭和35)年の台風16号では戦後最大の出水を記録し、JR亀岡駅周辺まで浸水するなど多くの被害をもたらした。このため 71(同46)年の「淀川水系工事実施基本計画」改訂で、桂川の治水対策は日吉ダムによる洪水調節と、保津峡開削を含む河道改修によることとされた。治水対策の大きな柱である日吉ダムは、基本計画(改訂)から27年後の98(平成10)年に完成し、治水安全度は飛躍的に向上したのである。

桂川は亀岡盆地を縦断し、南部の馬堀駅あたりで東に向きを変え、保津峡を流れて谷口部の嵐山・渡月橋に向かう。途中、落合橋で清滝川と合流し、勢いを増して保津峡を流れ落ち、嵐山に流れ着く。    (続く)

《フォト》

 

 

 

アドバイザリー レポート            by 木公だ章三

041

2019/12/16

地域シリーズ : いろいろな『愛宕詣』

(※「愛宕詣2019」を再掲)

来年のNHK大河ドラマは「麒麟がくる」ですね。明智光秀ゆかりの地では様々なイベントが始まり,京都府と兵庫県,そして亀岡市・福知山市などの7市町が協力して大丹波観光推進委員会を組織し,「丹波 明智光秀/ゆかりの地マップ」などをつくって,光秀の足跡と魅力のキャンペーンを行っています。この中で京都市域では,光秀が本能寺へ向けて進軍した三つの道(明智越,唐櫃越,老の坂越)のほか,愛宕神社が紹介されていましたので,新年への祈願を兼ねて愛宕詣をレポートします。

《ご案内》

時は今 天が下しる 五月哉

1582(天正10)年5月,明智光秀が本能寺の織田信長を攻める前に,愛宕神社で連歌会(愛宕百韻)を催し詠んだ句であり,光秀の決意を秘めたものとされる。

この連歌会の開場となった愛宕神社へは,清滝口からの表参道のほか,水尾ルートや裏参道の樒原ルートなどがあり,今回は丹波側の樒原ルートで上ることにした。霧の中をJR八木駅からバスで越畑に向かい,終点の原バス停近くには大きな鳥居が立っていて,裏参道の入口がすぐ分かる。急な坂道を上り,少し開けたところからは山間を埋める雲海が見え,すがすがしい気分になった。

標高924mの愛宕山は比叡山より76m高く,京都市最高峰の霊山である。山頂途中には旧愛宕スキー場跡への案内標識があり,戦前にはホテルや愛宕山遊園地などとともに賑わっていたという。

愛宕神社は全国に約900社を数え,それらの本社が愛宕山上に鎮座する愛宕神社である。古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ,「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた同社の火伏札は,家庭の台所や店の厨房などいろんなところに貼られていて,京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えない。

愛宕神社のHPによれば,同社は大宝年間(701704)に創祀し,早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く,9世紀頃には比叡山・比良山等とともに七高山の一つに数えられたという。境内には,比較的新しい本殿,奥の院などがあり,札所の向いには暖をとれる休憩所が用意されていて,登山者をもてなしている。

愛宕信仰は,愛宕山に集まった修験者によって江戸時代中頃から全国に広められ,中世後期以降,火伏せに霊験のある神として広く信仰されたという。民間では各地に「愛宕講」が組織されており,さまざまな愛宕ツアーが組まれたのだろう。特に,731日夜から81日早朝にかけて参拝すると千日分の火伏・防火の御利益があるといわれる千日通夜祭(通称「千日詣」)には,毎年数万人の参拝者で境内参道は埋め尽くされる。

愛宕山を下ると,表参道の途中には明治初めに19軒あったという茶店の跡の石垣が残っており,また参道脇にはたくさんのお地蔵さんが身ぎれいに設えられている。表参道の出発点となる清滝口(愛宕神社二の鳥居)を上ったところには,参道横に苔の生えた石畳が階段状に並んでいる。かつて,ここから愛宕山に向かってケーブルカーが出発していた。愛宕山鉄道が1929(昭和4)年に開設した清滝川-愛宕間のケーブルカーであり,同社は清滝駅から嵐山駅までの鉄道(平坦線)も開設し,比叡山と同様に,市街地から愛宕山まで鉄道とケーブルカーを使って上ることができた。開業当時は,山麓部の清滝遊園地とともに賑わったようだが,戦時中に全線が不要不急線に指定され,レールを軍に供出したことから,1944(昭和19)年に廃線となり,戦後も復活することはなかった。僅か15年の短命路線であった。

廃線跡は,道路として利用され,遺構として単線の清滝トンネルが残っている。昭和10年の都市計画基本図にはJR嵯峨野線をまたぐ鉄道の跨線橋が記されている。  続く

《フォト》